本日も、りけいのりからお届けします。
新カテゴリー開設のお知らせです。
質問
ここで唐突な質問。
皆さんは人間ですか?………………
……は?当たり前だろと、どこからか聞こえる気がします。
不思議と、
実は……火星人でして……先日はうちのUFOがお騒がせしてすいません…という声や、
実は……妖怪でして……なんでもかんでもぼくらのせいにされて困っていて、早く人間になりたいです…という声や、
実は……虚数でして……存在するのか否かとかいう論争に巻き込まれていて、早く実数になりたいです…という声が、
控えめながらする気もします。
ちなみに驚くなかれ!
私は人間です。
さて唐突な質問に、この記事は一体何の記事だったかわからなくなってしまった人もいるかも知れません。
一応新カテゴリー開設記事でした。
しかし、そのテーマ内容に関連して、今一度皆さんがやっぱり人間であることを確認しておきたかったのです。
さて、その人間に関連したカテゴリー、その名は、
科学者列伝です。
私は、ずっと思っていました。科学者がおもろい!と。科学における大発見や、偉大な理論の創出には、いつだって人間が関わっているのです。その歴史をたどってみると、そこには人間ドラマや、ただの人間が有るのです。
そして、そういった科学者は大概、並ではない、とんでもない人物たちです。幼少期に自力で文字が読めるようになったものもいれば、小学校の先生が出した難問を一瞬で解いたものもいたり。はたまた、話しかけても全く話さないものもいたり、ずっと実家に引きこもって研究し偉大な業績をあげたものもいる。夢の中で神に数式を教えてもらうものや、無限を覗き無限に覗かれ精神を病んだものもいた。
しばしば、科学者の半生が小説や映画になるのも、彼らの発見が偉大なだけでなく、一人の主人公として描くに足るだけの、突出した特徴や性格を持っているからです。
例えば、アラン・チューリングを主人公にした『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014)、シュリニヴァーサ・ラマヌジャンを主人公にした『奇蹟がくれた数式』(2016)などは、良い例です。
人物を知ることのすすめ
皆さんは、歴史的書物の記述方式に、「編年体」と「紀伝体」というものが有るのを知ご存知でしょうか?
「編年体」は、その名からも察せるとおり、起こった出来事を、時間軸に沿って順番に記述していく方式です。
対して「紀伝体」は、その名前からは、どのようなものかを察することは難しいと思います。簡単にいうと、一つの国や個々の人物ごとに、起きた出来事を記していく記述方式です。本来は特に中国や日本で用いられた歴史書の形式で、その中身が、一国の王や皇帝を中心として起きた出来事を記述した「本紀」、国に仕えた官僚や武将を中心として起きた出来事を記述する「列伝」、にわけられます。この後ろの漢字を取って、「紀伝体」と名付けられました。
長い中国の歴史では、人物を中心としたこの「紀伝体」が、司馬遷の『史記』以降、国家の歴史書の形式として、中心を担ってきました。
つまり、編年体という形式がありながらも、紀伝体という、人間中心の記述方式が、古来から愛されていたわけです。
私は、ここに必然性が有ると思います。無機的に整理された情報は、確かに、正確にすばやく情報をインプットしたいときには優れています。しかし、人間の脳みそはそれほど賢くできていない。学習の過程で出てきた人物に強く共感しながら学んだり、脱線した無駄な情報と共に学んだりしたほうが、しばしば、記憶の中にいつまでも残っているということが有ると思います。
科学全般に関して勉強をしているときも、よく定理や方程式に名前が出てくるあの人だったり、なんかよく名前も聞いて有名なのも知っているけど、未だに勉強していて出てきたことがないあの人。そんな人たちの面白い半生や性格・特徴を知ることで、今までやっていたつまらない勉強に、鮮やかな色が付いて、学問がより楽しくなってきます。学んだこともより記憶に残って、学習効率も上がるでしょう。
だから皆さんに、人を中心にして、科学を捉えてみるということを、是非してほしいのです!
最後に
この新カテゴリー「科学者列伝」、確実に理系の人でも文系の人でも楽しんでいただけると思います。
また、その人が行った科学的業績の専門的な説明というよりも、その人物自体のことを取り上げて、その人がどのような人生を送ってきたのか。どんな人だったのか。ということを中心とした記事を書いていこうと思っております。ですので、背景知識がなくても楽しめる内容となっています。
ぜひ、「科学者列伝」を通して、科学者の人間としてのあり方を楽しんでいただけると、嬉しいです。
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる
迂愚者 の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。
科学もやはり頭の悪い命知らずの
死骸 の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。(寺田寅彦 『科学者とあたま』)